不寛容という不安

なぜこんなにも生きづらい時代になったのだろうか? そんな台詞を心の中で(あるいは実際に口にだして)呟く人々が、日本だけではなく世界中で散見されるようになってきている。ひと昔前に比べて、いろんな商品やサービスが安価で入手できるようになり、さまざまな情報を享受できる機会が飛躍的に増大したにもかかわらず、毎日の生活が砂を噛むように味気ないばかりか、むしろ将来への漠然とした不安で憂鬱ですらある・・・。 ** 現在、わたしたちを包囲している重大なリスクに対して、地球上のいかなる「国家」も主体的に対処することができなくなっている。特に先進国で顕著になっていることだが、グローバル化によって産業構造が転換した結果、総じて中間層が崩壊したことが挙げられるだろう。経済的にも精神的にも安定を得られるのはごく一部の富裕層となり(しかも彼らとて「転落」のリスクを完全に免れてはいない)、「自助努力」という名の社会保障の切り捨てが横行するようになれば、「国民国家」を成り立たせている同胞意識に綻びが生じるようになるのは必然といえる。つまり、社会のすべての階層が多かれ少なかれ、「薄いガスのような恐怖」に苛まれているのである。 ** わたしたちが「信じているもの」が、結局は誰かが発明したものである限り、修正や別のものへの取捨選択は可能であるし、実際少なくない人々がそれを行ってきた。また、「信じているもの」の寄せ集め、パッチワークでできたわたしたちの社会も畢竟、誰かが何らかの目的意識に基づいて構築したものに過ぎない。ただし、それを変えるには少々のことでは動じない勇気と忍耐が必要になってくる。